他人(のおなら)には厳しく...
自分以外の他人の屁というものには、音にしろ臭いにしろ、どうしても厳しくなってしまう。
普段、他人の屁に遭遇する確率が高いのは駅やサービスエリア、大型スーパー等の割と個室の数が多い大型トイレではないだろうか?
『おならはトイレで...』という教えもあり、決してマナー違反ではなく、全国おなら協会からも推奨されている基本中の基本なのである。(?)
なのに共同トイレで他人の屁を耳や鼻(?)にするのは決して気持ちの良いものではなく、時には不快な思いを抱いたりするものだ。
男の場合は小便器に横一列に並んで用を足すというスタイルが一般的だが、隣でフェイント気味に屁をこかれると、一瞬小便が止まってしまったりする。
『うっ…!』
無防備な体制から銃を放たれたような、やられた感がハンパない。
また個室から漏れるフラット気味の屁の音色は、まるで放課後の校舎から聞こえてくる管楽器のへ長調の音色に思え、ついノスタルジックな感傷に浸ってしまったりする、気が抜けて笑いそうになってしまう。
ただ自分が力んでいる場合は別である。
隣の個室から予期せねタイミングで放たれた屁に心を乱された挙句に途中で千切ってしまい、悔し紛れにそれ以上の音量でねじ伏せてあげようと力んでビブラートがかかり、その結果肛門にダメージを与えてしまうのだ。→しかもこの場合不発か蚊の鳴くような屁が出て、心身共に打ちひしがれるケースが多い。
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車の運転中、クラクションで応えようとしたのに、叩きが甘くてホーンが鳴らなかった時のような恥ずかしさも感じたりするのである。
不発ならばせめて、
『たまやー!』
と尻(おなら)ではなく、かけ声で称えるべきなのだろうか?
せめてどんな漢があんな豪快な花火を打ち上げたのか一目見てやろうではないかと、わざとゆっくり手を洗い、そして髪を直すフリをして待ち構えちゃったりなんかするのである。
そこに強靭な体格の漢が現れたのならば、それはもう素直に負けを認めるし、
『勝てるわけがあるまい。』
と、むしろすがすがしさすら覚えるのであるのだが、それが何故かか細くて胃腸の弱そうなキリギリスのような男が現れたりするから驚く。
そして、この繊細なバイオリンでも奏でそうなキリギリスのどこからあんなパワフルなバスドラムのような大音量が出たのか考え込んでしまうのだ。
『ファイトー!』
『いっぱーつ!!』
と、勢いのある元気な屁でそのエールに応えたかったのに応えられなかった惨めな俺…。
そんな俺をあざ笑うかのように片手だけ洗って速攻で居なくなる小汚いキリギリス…。
すっきりした筈なのにすっきりしないとは、まさにこの事である。
そしてトイレを出たところで彼女と合流している晴れやかな顔のキリギリスを見かけた俺は、
『この男はテポドン並みに恐ろしい屁をこいたんっすよ!』
と、告げ口してやろうかと思うほど嫉妬心にまみれているのであった(←クズ野郎)
いずれにしても音は笑い話で済まされるケースが大半なのだが、匂いに関しては笑えない。
自分の屁のレベル2と同等の匂いでも、他人の屁だと一気にレベル8位に感じてしまうのは何故なのだろう…。
う◯こが漏れてるのでないか?と疑いの目で見ずにはいられない。
逆に自分の匂いは妙に愛着が湧いたり気になったりして、匂いの原因の記憶を辿り、
『だから臭くてもしょーがないよね』
と、臭い屁をこいた自分に都合よく折り合いをつけて今日も生きているのである。
つづく
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